朝の光は部屋の隅にある古い椅子の脚を、必要以上に鮮明に照らし出している。 画面の向こう側では、誰かが誰かに向かって絶え間なく言葉を投げ続け、 それに対する反論や賛同が、まるで乾いた砂のように積み重なっている。 その果てしない往復を見つめているだけで、指先から熱が奪われていくような感覚に囚われる。 世間ではこれをSNS疲れと呼ぶのだろう。その言葉が持つ明確な定義よりも、ただ視神経が微細に震え続けるような、 あの特有の摩耗感だけが手元に残る。 タイムラインには、言葉を尽くして自らの正当性を証明しようとする人々があふれているが、 その輪から静かに外れ、決して言い返さない人の背中を思い浮かべる。それは敗北ではなく、単に別の重力圏に移動しただけのように見える。 そうして言葉の重力から外れていく感覚は、以前書いた「SNS疲れの漂流記録」の中で漂っていた、終わりのない循環の景色にも少し似ている。

窓の外ではカラスが電線に留まり、数秒おきに首を傾げている。 彼らには彼らの、人間には解読できない厳密なルールがあるのだろう。 スマートフォンを裏返し、液晶の黒い画面に自分の顔がぼんやりと映り込むのを見る。 一人の時間を確保するという行為は、物理的に空間を区切ることではなく、 他者の評価という透明な網の目を一時的にすり抜ける作業に近い。網の目は細かく、油断するとすぐに意識の表面に引っかかる。 言葉は常に何かを規定しようとし、正しさを求め、誰かを裁くための道具として消費されていく。 その速度についていけないと感じる瞬間、部屋の空気は急に密度を増したように重くなる。

床の上を、静かな影が横切った。四つの足音はほとんど響かない。 灰色の毛並みを持った塊が、こちらの様子を伺うでもなく、ただ直進してくる。 猫という生き物は、人間が抱えているSNS疲れの深刻さや、社会的な記号のやり取りには一切の関心を示さない。 彼はただ、部屋の中で最も温度が安定している場所を探しているだけのようにも見える。 しかし、その歩みが私の座っている椅子の足元で止まり、衣服の裾に柔らかな重みが加わったとき、世界の傾きがほんの少しだけ変化する。

言葉による同意や、記号化された承認のボタンは、常に条件を伴う。 何かを表現し、提示し、それが他者の基準に合致したときに初めて、肯定らしきものが発行される。 だが、足元で丸くなり始めた毛玉から発せられる微弱な体温には、そうした手続きが一切存在しない。 ただそこに存在することが、そのままこちら側の存在を認めさせているような錯覚。 それを静かな肯定と呼ぶのは、人間の勝手な感傷かもしれない。猫は単に、人間の体温を利用して自らを温めているだけなのだから。 それでも、肉体と肉体が接触するその一点において、意味の剥ぎ取りが行われる。

一人の時間を静かに消化していく中で、言葉を持たない隣人の存在は、 解釈の余白を大きく広げてくれる。言い返さない人が持っている静けさも、おそらくはこうした非言語の世界とどこかで繋がっている。 あの沈黙が単なる空白ではなく、関係そのものを維持するための形に見えた感覚は、「空気を壊さない返答」で観察していた喫茶店の静けさとも重なっている。

言葉で構築された城は言葉によって容易に崩されるが、最初から何も建てていない場所には、壊されるべき壁もない。 外では風が網戸を小さく揺らしている。猫の呼吸に合わせて、その背中が規則正しく上下する。 その動きを眺めていると、画面の中で交わされていた無数の主張や、それに伴うSNS疲れの輪郭が、次第にぼやけていく。 正しさの検証は終わりを迎え、ただ部屋の温度と、毛の感触だけが、確かなものとしてそこに残されている。