SNS疲れの輪郭と、過剰に上手い感情表現
2026.01.31 (土)
ガラスの板の向こう側で、多くの人が実に見事に喉を震わせている。 あるいは、震わせているかのような記号を並べている。 街を歩く人々が互いの視線の角度を測り、呼吸の深さを揃え、沈黙の濃度を壊さないように、慎重に足元を確かめながら歩いているのとは対照的だ。 あちら側では、皮膚の内側に隠されているはずのものが、まるでよく手入れされた果実のように鮮やかな色彩を持って並べられている。
その鮮やかさを眺めているうちに、目の奥に軽い疲労が溜まっていくのを感じる。 視線は、一つの画面から次の画面へと、短い歩幅でしか移動できなくなっている。 これらは本当に、その人の内側から湧き出たものなのだろうか。 それとも、あらかじめ用意された型に、自らの輪郭を流し込んでいるだけなのだろうか。
外の世界では、人々は空気を読みあうことに大半の時間を費やしている。 言葉を発する前に、その言葉が描くであろう軌道を予測し、他者の境界線に触れないよう、静かに身を引く。 その振る舞いは、まるで空気を壊さない返答の境界線の内側を歩き続ける作業にも似ている。
そこには、発露されなかった無数の感情が、透明な澱のように足元に積もっている。 しかし、ひとたびあの発光する四角い空間に足を踏み入れると、人々は驚くほど雄弁になる。 上手く感情を出す、という技術が、そこでは通貨のように流通している。
悲しみは誰もが同情しやすい尖った形に整形され、怒りは正当な理由という装飾を施されて、綺麗にディスプレイされる。 その手際の良さを眺めていると、自分がSNS向いてない人間であるかのような錯覚に陥ることがある。 そこにあるのは、感情そのものというよりも、感情の形をした精巧なレプリカのようにも見える。 人々はそのレプリカを交換し合い、互いの存在を確認している。
それは一種の、優しい皮肉として私の目に映る。 リアルな人間関係の摩擦を避けるために、空気を読み、自らを押し殺している人々が、 その反動として、より過酷な、表現の品評会のような場所に身を投じている。 その循環は、SNS疲れの漂流記録の中で観察された、終わらないタイムラインの流れともよく似ている。 どちらが本当の姿であるかなどという問いには、おそらく意味がない。どちらも、その時々に選択された、生存のための構えに過ぎないのだろうから。
画面をスクロールする指の動きが、少しずつ遅くなる。 文字の列は、ただの光の斑点となって網膜を滑り落ちていく。 発信される言葉が増えれば増えるほど、その背景にある静寂が、より深く、重いものになっていくような気がする。 SNS疲れという言葉が、どこからともなく聞こえてくる。 それは、過剰な記服を要求されることに対する、肉体の静かな拒絶反応なのかもしれない。
上手く感情を出す人々は、自らが作り出したイメージの檻の中に、次第に閉じ込められていく。 外の世界の空気の読みあいに疲れ、逃げ込んだ先で、今度は表現の正確さを競い合っている。 その循環には、終わりがないように思える。窓の外では、冬の夜空がただ、何の色も主張せずに広がっている。あちら側の光がどれほど眩しくとも、この部屋の隅にある影を消し去ることはできない。
ただ、ひとつの現象として、それがある。 表現することの過剰さと、沈黙することの不自由さが、同じ天秤の両皿の上で、小さく揺れている。 どちらに傾くわけでもなく、ただその揺れ自体が、現代の風景の一部として、そこに固定されている。