SNS向いてない人が、アプリを閉じきれない理由"
2026.02.03 (火)
画面の端で、小さな光の点が規則的に明滅している。 それを視線が追いかけるともなく追いかけているうちに、指先が勝手に滑らかな硝子の表面をなぞりはじめる。 そこには誰かが決めたわけでもないのに、いつの間にか出来上がった「普通」という名の境界線が引かれていて、 人々はその線の上を器用に歩いているように見える。
自分もまた、その歩行者の一人として数えられているのだろう。 タイムラインを流れていく言葉の群れは、どれも一見すると自発的な意志によって紡がれたもののように映るが、 少し引いた位置から眺めてみると、あらかじめ用意された型に綺麗に流し込まれた砂細工のようにも思えてくる。
発言すること、あるいは沈黙することのどちらを選んでも、結局はシステムの側が用意した選択肢の枠内に収まってしまう。 自ら望んで書いているはずの言葉が、 実は背後にある見えない力によって書かされているのではないかという感覚が、頭の片隅で静かに澱のように沈殿していく。 この、自分の輪郭が曖昧になっていくような感覚を、世間ではSNS疲れという言葉で一括りに処理してしまうのかもしれない。 しかし、そのラベル化の過程自体がすでにひとつの回収装置として機能しているのだとしたら、それは「模倣としての表現が連鎖していく感覚」とも無関係ではないのかもしれない。
街を歩けば、看板や広告が「あなただけの選択」を執拗に勧めてくる。 それはどこか、SNS向いてないと感じながらもアプリを消せないでいる人間の心理を見透かしたような、優しい皮肉のようにも響く。 差し出された選択肢の中から最も摩擦の少なそうなものを拾い上げ、それを自分の意志だと錯覚する作業を、私たちは一日に何度も繰り返している。 誰かが決めたタイムラインの速度に同期していくうちに、個人の思考の呼吸は浅くなり、やがて均一なリズムへと統合されていく。
窓の外では、夕暮れの光が建物の壁面を斜めに切り取っている。 その光の角度すらも、何らかの計算式によって導き出された再現性の高い現象に過ぎないのではないかという疑念が、ふと頭をよぎる。 自分が今、この場所に立って景色を眺めているという事実さえも、誰かが仕組んだ大きなプログラムの一幕のように思えてくる。 書くという行為は、本来は自らの内側にある混沌に形を与える作業であったはずだが、 今ではただ、外側から押し寄せる情報の波に対して、適切な反射を返しているだけに過ぎないのかもしれない。
画面の向こう側では、絶え間なく新しい言葉が生産され、消費され、そして消えていく。 その過剰な流動性の中に身を置き続けることが、どれほど人間の精神を摩耗させるかについて、深く考える者は少ない。 SNS疲れという現象は、単に情報量が多いということだけでなく、自らの主体性が滑らかに収奪されていくプロセスそのものに対する、 身体的な拒絶反応なのかもしれない。 それでもなお、指先は次の情報を求めて画面をスクロールしようとする。 その動作の主語が、果たして「私」であるのか、それとも「端末」であるのか、その境界はすでに夕闇の中に溶けてしまって、うまく判別がつかない。
その曖昧な輪郭のまま世界を眺めていると、ふと「窓辺に残る傾き」のような、説明しきれない微細なズレだけが現実として残る。
開かれたままのノートの白さが、部屋の明かりを反射して眩しく光っている。 そこにはまだ何も書かれていないが、すでに書かれるべき内容の傾向は、世界の側によって決定されているような気がする。 選ぶということの不自由さを抱えたまま、ただ時間が静かに流れていく。