画面の中で言葉がぶつかっている。 硬いもの同士が擦れる音は聞こえないのに、指先の奥にざらつきだけが残る。 SNS疲れという言葉が浮かんで、少し遅れて沈む。 その言葉自体がどこか借り物のように感じられるのは、「SNS疲れと選択の錯覚」で触れられているような、あらかじめ用意された輪郭に沿っているからかもしれない。

誰のものでもない疲れが、誰かの発言にくっついて移動しているように見える。 片方の文は短く、もう片方は長い。 長さは理由の代わりにならないのに、長い方が先に息切れしているように見える。

スクロールの速度を変えると、怒りの密度も変わる。 ゆっくりなぞると粒が大きく、早く流すと粉になる。 粉は軽いはずなのに、なぜか肩に積もる。 人付き合いに疲れた、という断片が別の場所で見つかり、同じ色で塗られている気がする。 関連はないはずなのに、同じ棚に並べられている。

通知の赤い点が、遠くの信号みたいに規則正しく点滅する。 止まれの合図にも見えるが、誰も止まらない。止まらないこと自体が合図になっている。 SNS向いてないと書かれた一行が、別の喧嘩の下に沈んでいく。 沈む速度は内容と無関係で、ただ次の波に押されているだけに見える。

言葉の中に人がいるのか、人の周りに言葉があるのか、どちらでも同じに見える瞬間がある。 どちらでもないかもしれない。 引用の矢印が枝分かれして、どこから来たのか分からなくなる。 枝の先でまた別の言葉が固まる。 固まりは形を持つが、持ったまま崩れる。

SNS疲れは説明にならないまま便利に使われる。 便利さは滑りやすく、指先から抜ける。 抜けたあとに残るのは、なぜ見ていたのかという空白だけで、空白はすぐに別の投稿で埋められる。 埋められたはずの場所に、同じ空白の輪郭が残っている。

時間の表示が更新されるたび、さっきのやり取りが古くなる。 古くなると軽くなるはずなのに、軽くならないものだけが目に残る。 目に残るものは理由を持たず、ただ居座る。

そうして残ったものは、「道端に残る曖昧な位置」のように、意味を与えられないまま、ただ配置だけを保ち続ける。 人付き合いに疲れたという言葉が、誰のものでもないまま通路に置かれている。 通路は広くも狭くもなく、ただ通れる幅だけが続いている。