SNSを開かない一日は、最初に時間の位置がずれる。 通知の代わりに、部屋の角の明るさが先に変化を知らせてくる。 SNS疲れという言葉を思い出すが、画面はないので検証はできない。 ただSNS疲れという語だけが頭の中に残っている。

朝のテーブルには冷めた湯のみが置かれている。 飲む理由が遅れて追いつく。 SNS疲れを避けるという選択は、何かを守るというより、何かを一時的に置き去りにする動作に近い。 あの「静かな人と動物の観察の揺れ」 のなかで扱ったように、人付き合いに疲れたという表現が、少し遠くで反響する。

窓の光の反射が、床に薄く揺れている。 そこに意味はないが、意味のように見える。 SNS疲れの代わりに、視線はその揺れに固定される。 「SNS疲れと既存層の未観測」 のあとのように、一人の時間が増えると、思考は整理されるより先に拡散する。

昼に近づくと、予定のない時間が少し重くなる。 何もしていないわけではないが、記録されない行為が続く。 SNS疲れから離れたはずなのに、その言葉が周期的に戻ってくる。

外の音は断片的で、車の通過音だけが規則性を持つ。 SNS疲れという語は、外部のリズムを内側に持ち込む装置のように見える。 一人の時間は静かだが均一ではない。

午後、机の上の紙がわずかに位置を変えている。 誰も触れていないのに動いたように見える錯覚がある。 SNS疲れを避けた結果として、観察だけが残る。 人付き合いに疲れたという記録はどこにも残らず、ただ視線の端に沈む。

夕方になると、光は低くなり、部屋の輪郭が少し曖昧になる。 一人の時間は長さではなく密度で感じられる。 SNS疲れはまだ言葉として残っているが、意味は少し薄くなっている。

夜に近づくと、思考は再び細かく分岐する。 SNS疲れのない日というより、SNS疲れの定義が曖昧になる日として残る。

机の端に置いたスマホは、画面が暗いまま存在だけを主張している。 SNS疲れという語をもう一度思い出そうとして、思い出しきれない隙間ができる。 その隙間に一人の時間が流れ込むが、形にはならない。 人付き合いに疲れたという記憶も、同じ場所に重なるが区別は曖昧になる。

外が暗くなるにつれて、室内の音は細かく増える。 SNS疲れという言葉は、意味というより癖に近くなり、回復というより反復の中に置かれている。

一人の時間は、静けさではなく空白の密度として残る。 そこに意味は付かず、ただ繰り返しだけが少し遅れて沈む。 SNS疲れという語は、まだ消えないまま部屋の隅にある。