駅前のモニターに、桜の開花予想が出ていた。 天気予報の横に、小さく咲く予定日が並んでいる。 雨雲の動きと同じ扱いになっていて、少し変だった。 花は空から降ってこないのに、気圧みたいな顔をして毎年表示されている。

開花、という言葉も、よく考えると妙だと思った。 咲いた、ではなく、開花。何かの制度が始まるみたいな響きがある。 しかも基準木というものまで存在して、一輪か数輪か、そのくらいで季節全体が動き始める。 遠くの木に小さい花が数個ついただけで、人が急に春の話を始める。

コンビニの前でも、会社員らしい人が「もう咲いたらしいですね」と話していた。 らしい、で通じる。誰も見ていないのに、もう共有されている。 「SNS疲れという言葉」を思い出した。 実際に疲れているというより、見なくてもいいものまで先回りして届く感覚に近い。 桜は綺麗だと思う。でも、綺麗だと思う前に、“今、綺麗だと思う時期です”と表示される。

川沿いを歩くと、まだ枝ばかりだった。遠目には冬とそんなに変わらない。 けれど数人が立ち止まってスマートフォンを向けていたので、こちらも一応見る。 たしかに、一部だけ白くなっている。たぶん、あれがニュースになる部分なのだと思う。 花そのものというより、確認行為が共有されている。

梅の時は、ここまで騒がない。 沈丁花も、木蓮も、急に街を変える時があるのに、速報にはならない。 桜だけが毎年、「今年も始まりました」と言われる。 季節の自然現象というより、恒例行事に近い。 「優しい皮肉みたいに、誰も強制していない顔」で全員が同じ方向を見る。

空気を読む人は、この時期になると桜の話を少し混ぜる。 花見に行ったか、どこが満開か、今年は早いか遅いか。 別に興味がなくても、一度くらいは触れておく。 そういう柔らかい同調が、日本にはかなり多い気がする。拒否すると角が立つほどではない。 ただ、乗らないと、自分だけ別の季節にいる感じになる。

SNS疲れというのは、情報量の問題ではなく、感想の順番が決められている感じなのかもしれない。 桜を見る前に、桜を見るべき時期が流れてくる。 綺麗だと思う前に、綺麗と言う空気が置かれている。

夕方、スーパーの入口にも桜味のお菓子が積まれていた。 桜そのものの味は、たぶん誰もそこまで好きではない気がする。 少し塩っぽくて、葉の匂いが強い。それでも毎年並ぶ。 花が咲いたというより、“桜の季節”という概念が流通しているみたいだった。

帰り道、公園の端に黄色い花がまとまって咲いていた。 名前は知らない。誰も写真を撮っていなかった。風だけ通っていた。