誰も見ていない桜が、先に春として配布されている
2026.03.23 (月)
駅前のモニターに、桜の開花予想が出ていた。 天気予報の横に、小さく咲く予定日が並んでいる。 雨雲の動きと同じ扱いになっていて、少し変だった。 花は空から降ってこないのに、気圧みたいな顔をして毎年表示されている。
開花、という言葉も、よく考えると妙だと思った。 咲いた、ではなく、開花。何かの制度が始まるみたいな響きがある。 しかも基準木というものまで存在して、一輪か数輪か、そのくらいで季節全体が動き始める。 遠くの木に小さい花が数個ついただけで、人が急に春の話を始める。
コンビニの前でも、会社員らしい人が「もう咲いたらしいですね」と話していた。 らしい、で通じる。誰も見ていないのに、もう共有されている。 「SNS疲れという言葉」を思い出した。 実際に疲れているというより、見なくてもいいものまで先回りして届く感覚に近い。 桜は綺麗だと思う。でも、綺麗だと思う前に、“今、綺麗だと思う時期です”と表示される。
川沿いを歩くと、まだ枝ばかりだった。遠目には冬とそんなに変わらない。 けれど数人が立ち止まってスマートフォンを向けていたので、こちらも一応見る。 たしかに、一部だけ白くなっている。たぶん、あれがニュースになる部分なのだと思う。 花そのものというより、確認行為が共有されている。
梅の時は、ここまで騒がない。 沈丁花も、木蓮も、急に街を変える時があるのに、速報にはならない。 桜だけが毎年、「今年も始まりました」と言われる。 季節の自然現象というより、恒例行事に近い。 「優しい皮肉みたいに、誰も強制していない顔」で全員が同じ方向を見る。
空気を読む人は、この時期になると桜の話を少し混ぜる。 花見に行ったか、どこが満開か、今年は早いか遅いか。 別に興味がなくても、一度くらいは触れておく。 そういう柔らかい同調が、日本にはかなり多い気がする。拒否すると角が立つほどではない。 ただ、乗らないと、自分だけ別の季節にいる感じになる。
SNS疲れというのは、情報量の問題ではなく、感想の順番が決められている感じなのかもしれない。 桜を見る前に、桜を見るべき時期が流れてくる。 綺麗だと思う前に、綺麗と言う空気が置かれている。
夕方、スーパーの入口にも桜味のお菓子が積まれていた。 桜そのものの味は、たぶん誰もそこまで好きではない気がする。 少し塩っぽくて、葉の匂いが強い。それでも毎年並ぶ。 花が咲いたというより、“桜の季節”という概念が流通しているみたいだった。
帰り道、公園の端に黄色い花がまとまって咲いていた。 名前は知らない。誰も写真を撮っていなかった。風だけ通っていた。