画面に名前を打ち込むと、記憶が一瞬だけ平面になる。 あの人の輪郭は、当時よりも少しだけ整って見える。 SNS疲れという言葉が、ここでは説明にならず、ただの気圧みたいに薄く漂っている。 投稿は三年前で止まり、そこから先の時間だけが、なぜかこちら側に押し寄せてくる。 整った文章と整った写真は、いまの沈黙を強調するための枠のようで、額縁だけが残っている。

ちゃんとしている、という表現は、具体的な行為を指さない。 むしろ抜け落ちたものの形で定義される。 余白が少ない、あるいは余白をうまく隠す技術。 あの人の投稿には、余白が見えない。 だから余白がどこにあるのか、逆に気になる。 「一人の時間がどこに置かれている」のか、投稿の外側でしか想像できない。

スクロールを止めると、こちらの指の位置だけが現実になる。 SNS疲れは、読む量ではなく、「止める瞬間の数」で測れるのかもしれない。 止めるたびに、軽い優しい皮肉のようなものが浮かび、消える。 誰も責めていないのに、何かが少しだけ責めてくる感じがするが、それがどこから来るのかは特定できない。

検索欄に自分の名前を入れることはしない。 入れても、何も出ないか、出たとしても別の誰かの断片だろう。 アカウントはあるが、そこには時間が置かれていない。 空白は更新されないまま、均一に広がる。 誰かがたまたま思い出して、同じように検索することがあるのかもしれないが、その痕跡は残らない。 観測されない出来事は、起きていないこととほとんど同じに見える。

あの人の三年前の文章は、いま読むと少しだけ未来の文体に見える。 更新が止まっていることで、むしろ時間に対して均等に開かれている。 続きがないことで、どこにでも続けられる形になる。 ちゃんとしている、という印象は、こうして後から補強されるのかもしれない。 欠けているものが、整っているように見える。

SNS疲れという語は、ここでは原因でも結果でもない。 ただ、距離の単位みたいに働く。 画面と指、記憶と検索結果、過去の投稿と現在の沈黙。 そのあいだにある測れない幅を、仮にそう呼んでいるだけに見える。 一人の時間は、その幅の中で薄く伸びて、どこにも固定されない。 優しい皮肉は、たぶん誰のものでもなく、ただの反射として残る。

ページを閉じると、顔の印象だけが少しだけ更新される。 会話の記憶は増えないまま、見え方だけが変わる。 更新しないアカウントと、更新されない関係が、同じ速度で並んでいる。 どちらが止まっているのかは、区別がつかないままになる。