画面は平らで、光は奥行きを持っている。 帰路でそれを確かめるように、指はポケットの中に収まる。 SNS疲れという言葉は、どこかで聞いた音の残響みたいに残り、意味の方があとからついてくる。 一人の時間に戻るための操作が、いつのまにか別の操作を呼び寄せている。通知は小さく、匂いは広い。 夕飯の匂いは家ごとに形が違い、空気の層に混ざって、歩く速度で濃さを変える。

朝に咲いていた花は、同じ場所にいるのに別の輪郭をしている。 光が横から触れるだけで、輪郭はほどける。SNS疲れは、輪郭を均す力のようにも見える。 どの色も同じ明るさで並び、どの声も同じ距離で届く。 「帰り道では距離がばらつき」、声は近くなったり遠くなったりする。 誰かの笑いは角を曲がると急に消え、別の窓から低い音が落ちてくる。 優しい皮肉のように、見過ごしていたものがこちらを選ぶ。

一人の時間は、選ばないことの積み重ねでできている」のかもしれない。 触れないという選択が、触れている感覚を残す。 SNS疲れと呼ばれるものは、触れすぎた指の温度のことか、 それとも触れた気になった距離のことか、判別がつかないまま歩く。 足音は一定で、考えは一定ではない。 舗道の小さなひびに光が溜まり、そこだけ浅い水面のように見える。

家の前で、また画面が思い出される。忘れていたというより、少し離していたものが戻る感じに近い。 戻るとき、戻らないものもある。匂いの広さや、声の揺れや、花の輪郭の曖昧さは、そのまま外に残る。 SNS疲れという言葉だけがポケットに残り、形を持たないまま、重さだけを引き受けているように感じられる。