同じ時間の角を曲がると、ほぼ同じ位置でその親子と交差する。 会話の温度差みたいなものは、ここでは発生しない。 言葉が交わらないからだと思う。静かな人が選びそうな距離が、そこにある。 一定で、崩れない。数歩の誤差だけが日ごとに違う。

少し前までは、子どもは腕の中に収まっていた。 重さとしてしか存在していないように見えていた。

抱えられることで、形が保たれていた。今日は地面に触れていた。 足裏で。 歩いていた。 進むというより、触れている回数が増えたような動きだった。

その変化は、誰かが説明するものではないらしい。 横を通り過ぎるとき、親の声が一瞬だけ届いた。 「ゆっくりでいいよ」と言っていた気がする。 正確ではない。 言葉は、通り過ぎるときに少し歪む。外部から入ってきた音が、内側で形を変える。

静かな人は、そういう歪みを訂正しない。 聞き違いのまま置いておく。 その方が、現実に近い気がするからかもしれない。 一人の時間に戻ると、その言葉だけが残る。 子どもが歩いていた事実より、そちらの方が長く留まる。

全く知らない成長に対して、何かが動く感覚」は、理由を持たない。 持たせない方が安定する。会話の温度差がない場所では、感情も温度を持たないまま浮く。 冷たいとも違う。ただ、触れている。

生活と回復という言葉」は、たぶんこういう速度で進む。 誰にも気づかれない単位で。 抱えられていたものが、地面に触れるまでの間に、何かが移動している。 それが何かは見えないままでも、変化としては残る。

また同じ時間に通れば、同じ場所で交差する。 違うのは、触れている回数だけかもしれない。 歩数なのか、言葉なのか、どちらとも決まらないまま。