駅前の電光掲示板に「入社おめでとう」と流れている。 繰り返し。 少しだけ遅れて、同じ言葉が別のビルの壁面にも貼られている。 紙の方は風で端が浮いていて、誰かの祝福がめくれかけている。 静かな人はそれを見ている。誰かのものだったはずの言葉が、風の癖だけを残しているように見える。

人は立ち止まらない。会話の温度差だけが残る。 通り過ぎる人の顔はそれぞれ別の方向を向いていて、そのどれにも「おめでとう」は届いていない気がする。 あるいは、届いているのに誰も受け取っていない。 静かな人は、言葉が宙に浮いている時間を測るように歩く。

広告は均一な声で話す。 優しい皮肉のように、誰にでも当てはまる形をしている。 けれど、誰か一人に向けた言葉の重さはそこにはない。 重さがないから、軽く届くのかもしれないし、軽すぎて触れないのかもしれない。 静かな人は、そのどちらでもない位置を探しているように見える。

交差点で信号が変わると、人の流れが少しだけ乱れる。 その隙間に、誰かの「おめでとう」が入り込む余地があるのか考える。 けれど、流れはすぐに整う。言葉はそこに留まれない。 通り過ぎることだけが許されているみたいに。

ガラスに映る自分の姿と、背後の広告が重なる。 祝福の文字が身体の一部に貼り付いたように見える瞬間がある。 静かな人はそれを剥がさない。 ただ、どこまでが自分で、どこからが外側の声なのかを曖昧なままにしている。

会話の温度差は、「言葉が発せられた場所と受け取られる場所の距離」に似ている。 距離は測れるけれど、意味は揃わない。 優しい皮肉のように、整っているのに少しだけずれている。 静かな人は、そのずれを直さない。 直さないことで、何かが保たれているようにも見える。

祝福は誰かのためにあるはずなのに、「誰のものでもない形で街に置かれて」いる。 拾われることを前提にしていないような置き方で。 静かな人はそれを拾わずに通り過ぎる。 拾わないことで、言葉はまだ誰のものでもないままでいる。

風が少しだけ強くなる。めくれた紙が戻らない。 そこに書かれていたはずの「おめでとう」は、半分だけ見えている。 残りは折り返されている。 静かな人は、その見えていない部分の方に、少し長く視線を置いている。