桜の下で、人は少しだけ静かになるように見える。 声の代わりに、指先が動く。画面の中で枝の位置を整え、空の白さを調整する。 何かを決めている顔ではない。ただ、ずれを減らしている。 現実の輪郭よりも、共有される輪郭のほうに合わせていく。 「SNS疲れという言葉は、こういう場面のあとに遅れて浮かぶ」。

撮った瞬間ではなく、並べられたあとで効いてくる。 似た構図の桜が連続して流れると、どれか一枚だけが選ばれた理由が消える。 選ばれたという事実だけが残る。

隣で、誰かが同じ角度を探している。 少しだけ低く構える。少しだけ左に寄る。 その微調整は、誰かの視線をなぞっているようで、同時に誰のものでもない。 空気を読む人の動きに近い。明確な指示はなく、ただ外さない位置を探す。 優しい皮肉のように、ずれないことが評価される。 画面の中の桜は、風を受けていない。 揺れの途中が切り取られて、均された静けさだけが残る。 そこに時間は薄くなる。 現実では散り始めている花びらも、並びの中ではずっと満開のまま止まる。

SNS疲れは、情報の量ではなく、似ていることの持続で形を持つのかもしれない。 違いを見つけようとするほど、違いがないことに触れる。 けれど、撮る側は違いを感じている。 光の角度や、人の少なさや、たまたま落ちた影の位置。 説明されない差異が、それぞれにある。 その差異は、投稿の列に置かれたとき、ほとんど同じものとして扱われる。 違いは「個人の内側に留まり、外には広がらない」。 広がるのは、似ているという印象だけで、それが積もる。

誰かの画面に並ぶ桜を想像しながら、目の前の枝を見る。 ここにも同じ構図がある気がして、少しだけ距離を変える。 変えたところで、何が変わるのかは曖昧なまま、位置だけが動く。

シャッター音がいくつか重なる。重なった音は、どれも同じ長さで終わる。 終わり方が揃っていることに、理由は見えない。 SNS疲れという言葉は、ここではまだ名乗らない。 ただ、似ているものが並ぶ前の、わずかな調整の時間だけが、静かに残る。