貼られていない札を探している
2026.05.13 (水)
テレビの画面では、誰かが誰かを傷つけた話が続いていた。 人を殺したという言葉も、ひき逃げという言葉も、同じ調子で読み上げられる。 天気予報や交通情報と大きく変わらない速度で並んでいく。 その一定のリズムが、出来事そのものより先に部屋へ入ってくる。
報道の中には加える側と加えられる側がいて、見ている側は自然に場所を与えられる。 こちらが被害者で、こちらが加害者だという区切りは分かりやすい。分かりやすいものは流れやすい。 川の表面を葉が流れていくように、人の評価も流れていく。
かわいそうな人。ひどい人。
その言葉は確かに間違ってはいないように見える。 ただ、その二つの札が貼られた瞬間に、何かが見えなくなることもある。
加えられる側には選択肢がなかったのだろうと思う。 その日のその場所で、その出来事を受け取ることになった。 そのこと自体は変わらない。
一方で、加える側は別の形で選択肢の中にいたのかもしれないと思うことがある。 もちろん、だから許されるという話ではない。 ただ、人が何かを選ぶとき、それは本人の中では最善に近いものとして現れることが多い。外から見ると不合理に見える行動でも、その人の持っている世界の中では他に見えている道が少なかったのかもしれない。
そんなことを考えていると、大人の返し方という言葉を思い出すことがある。 会話の中で使われる大人の返し方は、相手を否定しない技術として語られることが多い。 けれど、本当に必要なのは返答の上手さではなく、少しだけ判断を遅らせることなのかもしれない。 言葉が遅い人を見ていると、そういうことを考える。
すぐに答えない人は、不器用に見えることがある。 けれど、その「沈黙の中では、まだ貼られていない札を探している」のかもしれない。
言葉を選ぶ人も似ている。
一つの言葉を置けば別の意味が消えることを知っているような話し方をする。だから返事が少し遅くなる。 テレビの中の出来事に対しても、本当は同じなのかもしれない。 ひどい人という言葉を置けば、それ以上考えなくて済む。 かわいそうな人という言葉を置けば、それ以上考えなくて済む。
それは便利な形をしている。 便利なものは広がる。 けれど、画面の向こうにいる人たちは、その便利な言葉より少しだけ複雑な形をしている気がする。
「静かな肯定という言葉」があるなら、それは相手を認めることではなく、 まだ分からない部分が残っていることを認めることなのかもしれない。
ニュースは次の話題へ移り、さっきまで映っていた場所は消えた。 画面には別の景色が現れている。 それでも、消えた人たちは消えずに残っていて、貼られた札だけが少し軽く見えていた。