駅前の横断歩道で信号を待っているとき、向こう側から歩いてきた人の姿が少し気になった。

服装が特別洒落ているわけではなかった。 高価そうな鞄を持っているわけでもない。ただ、全体の輪郭だけが妙に整って見えた。

整っている、という言葉も曖昧だと思う。 姿勢かもしれないし、歩く速度かもしれない。人とすれ違うときの視線の置き方かもしれない。 たぶん一つではない。 そういう人を見ると、私は時々原因と結果の順番が気になる。 上品だから今の形になったのか。 今の形を目指して少しずつ調整した結果、上品に見えるようになったのか。

どちらも同じように聞こえるけれど、少し違う話でもある。 植物が伸びたから支柱を立てたのか、支柱を立てたからその形になったのか、みたいな話に近い。 もちろん実際はその間を行ったり来たりしているのだと思う。 「大人の返し方という言葉」も、少し似ている。

自然にそう返している人なのか。 それとも昔どこかで失敗して、言葉を選ぶ癖が残ったのか。 「柔らかい断り方をする人」を見ても同じことを考える。

その人は本当に柔らかいのかもしれないし、柔らかく見えるよう整えているだけかもしれない。 けれど、その違いは外からではよく分からない。 分からないまま、その人の印象だけが残る。 感情を出さない人についても似たようなことを思う。 感情が少ないのか、感情を外へ置かないのか。 静かな湖なのか、蓋の閉まった容器なのか。

見た目だけでは判別できない。 それでも人は見た目から意味を作ってしまう。 私も例外ではない。

むしろ積極的に作っている気がする。 上品な人を見れば上品さを探し、おおらかな人を見れば余裕の正体を探す。 探しているというより、真似できそうな部品を拾っている感覚に近い。

歩幅。 言葉の間。 店員との会話。 誰かの話を遮らないタイミング。

大人の返し方というものが存在するとしたら、それは正しい答えではなく、そうした細かな部品の集まりなのかもしれない。 ただ、その部品を集め続けた先に理想の人物がいるとも限らない。 部品を集めた結果として理想が見えてくることもある。 順番は曖昧なまま動いている。

夕方、ガラスに映った自分の姿を見た。 特に何かが変わったようには見えなかった。 それでも昔より少しだけ立ち止まる回数が減った気もする。

真似をしているのか、形になっているのか、その区別は相変わらずつかないまま、駅前の人の歩く速度だけが記憶に残っていた。