急いでいたのは草ではなく空だったのかもしれない
2026.07.14 (火)
家を出て数十歩で土手に着く。 草は一昨日の記憶よりずいぶん高く、くるぶしの位置にあったはずの葉先が、今日はひざのあたりまで来ていた。 伸びたというより、昨日まで見落としていたのかもしれない。
一日でそんなに変わるわけがない、と反論しかける。 だが空は朝から妙に高く、雲は細くほどけながら東へ流れていて、その下では何でも少し早く育ってしまいそうな気配があった。
風が吹くたび、草の先端が同じ方向へ倒れ、その上だけが波のように揺れる。 茎は案外動かない。 揺れているのは上の二十センチくらいで、根元は何事もない顔をしている。
遠くで自転車のチェーンが一度だけ鳴り、信号機の電子音が規則正しく繰り返される。 そのどちらも空へ吸い込まれるようで、音は上へ行くものだったかと少し迷う。
空は何もしていないようでいて、全部の背景を引き受けている。 「背景の自律性と、意味の抜け殻」を思い出すと、その背景は案外忙しいのかもしれない。 青というより薄いガラス板を何枚も重ねた色に見えた。 「部屋の輪郭は、一枚だけ外側を向いていた」の一枚の葉を思い出したが、今日は葉ではなく空のほうが先にこちらを見つけていた気がした。 たぶん違う。 ガラスは積めば暗くなる。 でも今日は明るいので、その計算は見なかったことにした。
旬という言葉も、空を見ていると少し意味が変わる。 魚の旬は脂で説明できるし、野菜の旬は収穫で説明できる。
草にも勢いのある時期があるなら、空にもあるのではないかと思った。 夏前の空は、地面を急がせる仕事でもしているように見える。 そんな役目はない、とまた反論しかける。
空はただそこにあるだけだ。 草が勝手に伸びただけだ。 それでも草だけを見ていると、何か一つ説明が足りない感じが残る。
私の旬は夏だと思っている。 春も嫌いではないが、夏になると体の表面がようやく季節と同じ素材になる気がする。 暑さを受けるというより、暑さの中へ置かれるほうが近い。
「生命の源と対話している」などと言えば、いかにも何かを売り始めそうな文章になるので却下したい。 でも、別の言い方も見つからない。見つからないまま歩いている。
空は相変わらず広い。 広いというより、高さを測るものが周囲になかった。
電柱が一本、送電線が三本、その向こうで入道雲にもなりきれない白い塊が止まっている。 止まっているように見えて、実際は少しずつ形を崩しているのだろう。 こちらも少しずつ考えを変えているのかもしれない。 変えているのではなく、忘れているだけかもしれない。
草が伸びる速度より、空を見上げる回数のほうが、この季節だけ増えているのではないだろうか。