昼過ぎ、コピー機の横で名前を呼ばれた。 廊下側の窓から入った光が、床のワックスの上に細長く伸びていた。 その上を人が通るたび、靴底の乾いた音が途切れる。

説明が足りなかったことについて、少し強い調子で指摘された。 内容そのものは分かっていた。 こちらにも説明できる事情はあったし、相手の言い方について言えば、こちらから返せることもいくつかあった。

けれど、言葉が出てこなかった。 怒っているからではない。 むしろ、相手の声に疲れている感じが混ざっていた。

苛立っている人というより、何かがうまく収まらなくなっている人に見えた。 引き出しを閉めようとして、最後のところだけ少し引っかかる。 もう一度押せば閉まると分かっているのに、なぜか強く押してしまう。

そんな感じだった。 もしここで、上手く言い返そうと思えばできたと思う。 相手の言葉を否定せず、自分の立場も守る。 少しだけ皮肉を混ぜることもできる。 最近は、そういう返答の形まで随分と細かく整理されている。

角を立てない。 相手に負けたようにも見せない。 それでいて、「こちらの傷だけは増やさない」。

会話にも、そういう既製品のような言葉がある。

ただ、その日は使わなかった。 「そうですね」 それだけ返した。

自分でも少し意外だった。 言い返さないことは、相手の言葉をそのまま受け入れることとは違う。 実際、説明が足りなかったことについては、その通りだった。 一方で、言い方が少し強かったことも確かだった。

どちらか一方だけが正しいわけではない。 それなのに会話では、つい片方を決めたくなる。

指摘されたら反論する。 反論されたら説明する。 説明されたら、さらに理由を返す。

そうやって言葉を一つずつ積み上げているうちに、最初は小さかった出来事が、いつの間にか「どちらが正しいか」という話になっている。 その日は、そこまで進める必要がないように思えた。 「そうですね」と返したところで、何かが解決したわけではない。

相手が納得したかも分からない。 こちらの言い分が正しくなったわけでもない。 ただ、「それ以上言葉を増やさなかった」。

席へ戻って、冷めかけたコーヒーを飲んだ。 表面に蛍光灯の白い線が二本映っていた。 カップを少し動かすと、その線も一緒に揺れて、途中で切れた。

さっきの会話を思い出した。 言葉も似ているのかもしれないと思った。

一度口に出した言葉は、相手の中へ入ってしまう。 こちらがあとから「そういう意味ではなかった」と思っても、最初に届いた形までは戻せない。

だから、言葉を増やすことが、いつでも状況を良くするとは限らない。 午後、別の部署の人が書類を持ってきた。 「さっき、大丈夫でした?」 そう聞かれた。

少し考えてから、 「静かでしたよ」 と答えた。

その人は笑った。 意味が通じたのかは分からない。 たぶん、通じなくてもよかった。

上品な切り返しというものを考えていると、言葉の技術ばかりに目が行く。 相手を傷つけず、自分も傷つかず、場も壊さない。 そういう返答を持っていることは、たしかに便利だと思う。

でも、言葉を上手く返すことと、言葉を返さないことは、案外近いところにあるのかもしれない。 どちらも、その場に必要な言葉の量を考えている。 違うのは、言葉を足すことでしか守れないものがあるのか、それとも、足さないことで守れるものがあるのかということだ。

帰る前に、もう一度コピー機の横を通った。

昼間と同じように、誰かが紙を取り出していた。 機械の中で紙が一枚ずつ送られ、出てきたものをその人が揃えている。 一枚だけ端が少しずれていた。

その人は気づくと、指先で紙の束を軽く叩いて揃えた。 それで十分だった。

会話にも、あれくらいで済むことがあるのだと思った。