「また会おう」が軽く聞こえる季節
2026.03.29 (日)
三月の終わりは、駅の音が少し乾いている。 春休みに入った学生が増えるからなのか、朝の改札に、均一だった流れがなくなる。 昨日まで同じ制服だった人たちが、急に私服で歩いていて、輪郭だけ残った別人みたいに見える。
卒業式のあとに感じていた空白を、この時期になると思い出す。 何かを失ったというより、毎日存在していたものが、説明もなく終了する感じに近かった。
昨日まで隣にいた人が、四月になると、もう一生会わない可能性の側へ移動していく。 それは喧嘩でも裏切りでもなく、ただ時間割が消えるだけで起きる。 人間関係はもっと強い理由で終わると思っていた時期があったが、実際には「次の教室が違う」くらいのことで「静静かに途切れる」。
あの頃、教室には“普通”が並んでいた。 毎朝同じ時間に来て、同じ席に座って、昼になると弁当を食べて、帰り道にコンビニへ寄る。 誰もそれを特別だと思っていなかった。 たぶん、毎日あるものは、存在感を削られていく。
卒業式の日だけ、その普通が急に展示物みたいになる。 寄せ書きのペンの色とか、体育館のパイプ椅子の冷たさとか、上履きで歩く音とか、どうでもよかった部分だけが妙に残る。
「また会おう」と言う人たちの声が、廊下の途中で少し軽かった。 嘘というより、未来がまだ曖昧だったのだと思う。 実際、そのあと会わなくなる人は多い。 けれど、それを薄情とも思わなかった。 人は離れるというより、生活の密度が変わる。
最近、“上品な切り返し”をする人を見ると、少しだけ卒業式を思い出すことがある。 強く否定しない人。 「相手を傷つけずに会話を終わらせる人」。 ああいう態度には、一人の時間を長く過ごした人の静けさが混ざっている気がする。
感情を出さない人は、冷たいのではなく、温度を急に外へ出さないだけなのかもしれない。 紙コップの湯気みたいに、触れる距離だけ温かい。
駅前で、高校生くらいの集団が写真を撮っていた。 ひとりだけ少し離れて立っている人がいて、その距離が不自然ではなかった。 誰かが腕を引っ張って中央へ入れるでもなく、本人も端にいることを説明しない。 卒業の季節には、そういう配置が増える。
春は始まりと言われるけれど、実際には「終わったあと」の匂いが強い。 桜も、満開より散り始めの方が人を立ち止まらせる。 完成より、ほどける瞬間の方が長く見えるのかもしれない。
コンビニの前で、スーツ姿の人が電話をしていた。 「普通でいいんだよ」と何度か言っていたが、その“普通”が何を指しているのかは最後まで聞こえなかった。 たぶん本人も、少し曖昧なまま使っていた。