夕方、近所のスーパーに行った。 二歳になる前くらいだろうか。 三人組の親子連れがいて、父親側と子供が手をつないで歩いていた。

子供は棚の低いところに手が届く。 通りすぎるとき、陳列されていた本を一冊崩した。 子供向けの薄い本だったと思う。 表紙に動物がいた。ひとつ倒れると、隣の本も少しずつ傾いて、三冊くらいが前へせり出した。 父親は子供の手を握ったまま、その場を通りすぎた。

最初は、戻すのを忘れたのだと思った。

その考え方はずいぶん便利だ。 忘れたことにしてしまえば、こちらもそれ以上見る必要がない。 二歳になる前の子供なら、本を戻すという仕事をまだ担当していない。 父親は別のことを担当しているのかもしれない。 買い物、子供、夕方。担当部署が三つくらいありそうだった。

でも、崩れた本は棚の前に残っている。

一番上の表紙だけが少し見えて、値札の端に重なっている。 本の角は揃っているのに、背だけがばらばらの方向を向いている。床に落ちたわけではないから、店員を呼ぶほどでもない。だから余計に、そのままになっている感じがした。閉じていない引き出しみたいだった。

僕は数歩進んでから、一度だけ振り返った。 「本はまだ斜めだった」。

ここで戻せばいいのだろう、と思った。 三冊なら五秒もかからない。 たぶん三秒くらいで済む。 でも、それを僕がやるのも少し変な気がした。 誰かが崩したものを、たまたま見ていた別の人間が直す。 スーパーには、そういう偶然の片付けが結構あるのかもしれない。

それに、父親は子供と手をつないでいる。 子供は時々、棚のほうを向く。手を離すわけにもいかない。 その事情は分かる。

分かるのだが、「分かったところで本は戻らない」。

僕はまた反論しかけた。そもそも本の並びが少し崩れたくらいで、そんなに気にする必要があるのか、と。 本は読まれるためにあるのであって、角度を揃えるためにあるわけではない。 そう考えると、さっきまで気になっていた斜めの線が急にどうでもよくなった。

ただ、どうでもいいと言いながら、通路を曲がる前にもう一度見た。

三冊のうち、一冊だけ表紙が少し浮いていた。 そこに蛍光灯が四角く反射していた。 崩れているせいで、むしろ表紙の絵がよく見えた。 動物だったと思うが、何の動物だったかはもう分からない。

帰りに牛乳売り場の前を通った。 棚には同じ白いパックが何十本も並んでいた。 さっきの本のことは、もう見えなくなっていた。