SNS疲れと、悲しみが複製される速度
2026.01.10 (土)
画面の向こうで、四角い枠に収まったアナウンサーの口が正確に動いている。 数字がいくつか提示され、それが一人の人間の呼吸が止まったことを示している。 青いネクタイの結び目が少しだけ歪んでいるのが気になり、そこから視線が外せなくなる。 窓の外では、カラスが二羽、電線の上で等間隔に並んで座っている。彼らはニュースの音声には興味を示さない。
世界はいつも、引き算のあとの残差だけで構成されているように見える。 誰かがいなくなったという事実は、部屋の隅の埃が少し移動したことや、冷蔵庫のモーター音が一時的に高くなったことと、さほど変わらない質感でここに届く。 悲しむべきだという空気が、液晶の光とともに部屋の壁に反射している。しかし、その空気の密度はひどく希薄で、指で触れようとすると簡単に霧散してしまう。
近所の犬が吠えている。あの犬は、遠くの救急車の音に反応しているのか、あるいはただ自分の影に驚いているだけなのか。 言葉にされない領域には、常に過剰なまでの空白が用意されている。人々はその空白を、親切心や倫理という名前の既製品の蓋で覆おうとする。 そうしないと、その穴から覗くものが自分たちの足元をすくい取ってしまうと知っているからだろう。
たぶん人は、 本音そのものより、 空気を壊さないための形を先に学習している。
その静かな調整は、 空気を壊さない返答 の中にも少し残っていた。
机の上に置いたグラスの水面が、かすかに揺れている。近くの道路を大型のトラックが通り過ぎたのかもしれない。あるいは、地球の自転の速度がほんの少しだけ変化した。 死という現象は、そうした微細な振動の連続の果てにある、ごく自然な摩擦の停止に過ぎないのではないか。 そのような考えが頭をよぎるが、それを口にすることは、この社会の静かな約束事を破ることを意味する。
誰もが、正しく整えられた悲しみの雛形をポケットに忍ばせている。必要なときにそれを取り出し、顔に貼り付ける。 その手際の良さばかりが目につく。 向かいのマンションの窓から、洗濯物が風に揺れているのが見える。白いシャツが、まるで誰かが手を振っているかのように、規則的に、しかしどこか投げやりにはためいている。
言葉は、本音を伝えるためにあるのではなく、本音の周囲に防壁を築くためにある。
SNSでは、 その防壁だけが高速で複製されていくことがある。
「SNS疲れと模倣された感情表現」を読んだあと、 あのタイムラインの静けさを少し思い出した。
画面の中のニュースは、すでに次の話題へと移り、天気の予報が始まっている。 明日の降水確率は三十パーセントだという。その数字の持つ曖昧さだけが、妙に腑に落ちる。確定しないこと、割り切れないこと。 それだけが、この部屋の空気の中に静かに沈殿していく。
時計の針が、また一つ進んだ。秒針の音が、部屋の広さを規定しているように感じられる。死んだ誰かの名前はもう思い出せない。 ただ、そのニュースが流れていた瞬間の、蛍光灯の微かな羽音だけが耳の奥に残っている。壁の暦には、まだたくさんの数字が並んでいる。 それらの数字がすべて消化される頃には、今日のこの奇妙な空白も、ただの埃の層に紛れて見えなくなる。
カーテンの隙間から、夕方の光が斜めに差し込んできた。光の粒子の中に、無数の塵が浮遊しているのが見える。 それらは互いに衝突することもなく、ただ定められた軌道をゆっくりと落ちていく。世界は、何か重大な秘密を隠しているわけではない。 ただ、語るべき言葉を持ち合わせていないだけなのだ。
手のひらを眺めてみる。皮膚の細かい溝が、複雑な幾何学模様を描いている。ここには何のメッセージも書かれていない。 ニュースの音声は完全に途絶え、ただ画面だけが明滅を繰り返している。 遠くで、電車の通過する音が地響きのように伝わってきた。 鉄と鉄が擦れ合う音が、世界の輪郭をかろうじて繋ぎ止めている。