昼前、駅前の横断歩道で信号を待っている人たちの吐く息が、全員ほとんど同じ高さで白くなっていた。 風が強く、息は膨らむ前に横へ流れ、誰のものだったか判別できなくなる。 寒さというものは平等らしいが、平等という言葉はだいたい、何かを雑に均すときに使われる。

電光掲示板のニュース欄には短い文章が流れていて、誰かが誰かを批判したこと、その返答が波紋を呼んでいること、 その波紋にさらに別の波紋が重なっていることが、簡潔に表示されていた。最近は、内容よりも「燃えている」という状態そのものが先に運ばれてくる。 SNS疲れという言葉を見かける頻度も増えたが、疲れているのはSNSそのものではなく、透明なはずの言葉の中に、薄く濁ったものが混ざっているせいなのかもしれないと思った。

コンビニの前で缶コーヒーを持った男が、スマートフォンを見ながら何度も親指を止めていた。 返信を書くのをやめたようにも見えたし、書いたものを消しているようにも見えた。 言い返さない人には独特の沈黙がある。 諦めとも違うし、優しさとも少し違う。

冷えたガラスに指を当てたときみたいに、触れた側だけが温度を失っていく感じがある。

店内では、揚げ物の油の匂いと暖房が混ざっていた。入口付近だけ空気が冷たく、奥へ進むと急に柔らかくなる。 その境界で立ち止まる人がいた。 完全に外へ戻るわけでもなく、奥へ入るわけでもなく、曖昧な場所に身体を置いていた。 半透明の悪意という言葉は、その人の肩のあたりに少し似ていた。明確な攻撃ではない。だが、触れると温度だけが削られていく。

SNS疲れを語る投稿には、ときどき妙に整った文章がある。傷ついたことより、傷つき方をうまく陳列しているような文だと思うことがある。 読む側はそこに安心する。整っていると、事故現場にも柵が付く。けれど本当に冷たい日は、柵の金属まで冷える。

夕方、川沿いを歩くと、水面が風で細かく裂けていた。 橋の下に溜まった影だけが妙に濃く、誰かがそこへ黒いインクを流したみたいだった。 通り過ぎた学生たちの会話の中で、「優しい皮肉」という言葉だけが耳に残った。 冗談のように発音されていたが、優しい皮肉というものは、だいたい受け取る側があとで静かに冷える。

歩道脇の自転車のサドルには薄い霜がついていた。 手袋をしていても冷たさが伝わるくらいで、触れた指先だけ感覚が遅れる。 誰かの言葉も、ああいう遅れ方をすることがある。 刺さった瞬間ではなく、帰宅して暖房の前に立った頃に、ようやく痛みとして輪郭を持つ。 それはたぶん、世界を少し遅れて認識する感覚に近い。

夜になると、窓ガラスに室内の光が薄く反射して、外の景色と重なっていた。 部屋の中と外の境界が曖昧になり、遠くのマンションの灯りが、自分の部屋の奥に浮いているように見えた。 透明なものは、光が重なると少しだけ濁る。 濁っているのに、向こう側は見えてしまう。そういうものが、一番長く残るのかもしれなかった。