月曜の朝、デスクの端に置かれた小さな紙袋が、等間隔に並んでいた。 包装の色だけが微妙に違っていて、どれも観光地の名前が印刷されている。 海の写真だったり、山の輪郭だったり、なぜか鹿だけ妙に写実的だったりする。 箱の角は少し潰れていて、新幹線の網棚か、空港の床か、そのどこかを通過してきた形をしていた。

旅行の話より先に、「すみません、お休みありがとうございました」が置かれる。 そのあとに菓子が来る。順番が逆ではないことに、誰も触れない。

島根に行った人のまんじゅうを食べながら、北海道に行った人のクッキーを机に置き、 その隣で沖縄のちんすこうの袋が静かに開封される。 地理が雑に折り畳まれて、湿度だけが均一になる。

その場にいた誰かが、「こういうのって、大人の返し方ですよね」と言った。 軽く笑うような声だったが、何に対する返しなのかは曖昧だった。 休んだことへの返却なのか、楽しんできたことへの緩衝材なのか、 あるいは、“空気を読む人”である証明みたいなものなのか。

箱菓子は、謝罪と報告と社交辞令の中間に置かれている気がした。

断るほどのものではなく、感謝するほどでもない量の砂糖が、小分けになって配布されていく。 その「ほどでもなさ」が、とても丁寧に調整されている。

会議室から戻ってきた人が、「あ、もらってない人います?」と言ったあと、一瞬だけ室内が静かになった。 いないはずなのに、全員が少しだけ自分の机を見る。 その確認動作だけが揃っていて、誰も練習していないのに同じ角度だった。

優しい皮肉という言葉を、以前どこかで見たことがある。 あれは冗談の技術ではなく、たぶん“触れないための形”なのだと思う。 箱菓子にも少し似ている。 楽しかった話を正面から置かない代わりに、糖分だけ机に残す。

「気を遣わなくていいのに」と言いながら受け取る人と、 「ほんの気持ちなので」と言いながら配る人の間で、 大人の返し方だけが静かに循環している。

そのやり取りを見ていると、ときどき旅行そのものが、菓子を配る理由を作るための前工程に見える瞬間がある。 景色よりも、駅の売店の棚の方が制度として強い。

昼過ぎ、誰かが包装紙を剥がす音がした。 小さな破裂音のようにも聞こえたが、すぐにキーボードの音に混ざった。 普通という言葉は、たぶん多数決ではなく、 こういう小さな無音の確認作業で維持されている。

机の上には、まだ一つだけ余った菓子が置かれていた。 誰に渡しそびれたのか分からないまま、夕方までそこにあった。