駅のホームには、毎朝ほとんど同じ人が並んでいる。 誰も確認していないのに、立つ位置まで少しずつ固定されていて、電車が来る前から乗車口の形ができている。 白線の前に細い秩序が敷かれていて、それを踏み外す人は少ない。

最初は偶然だったはずなのに、繰り返すうちに身体が覚えてしまう。 階段から最短で乗れる場所。 混雑を避けやすい車両。 ドアが開いた時に最も早く座席へ届く角度。 人は慣れるより先に、削っていくのかもしれないと思った。

朝のコンビニでも似たものを見る。 同じ棚から、同じ飲み物を取る。温かい方にするか冷たい方にするかだけ少し迷って、結局いつもの方を選ぶ。 その迷いも含めて既に手順になっているように見える。

効率という言葉は静かだ。 怒鳴らないし、命令もしない。 ただ、少しずつ他の選択肢を消していく。

遠回りをしない。 余計な会話をしない。 考え込まない。 疲れない返事を選ぶ。

大人の返し方という言葉「大人の返し方という言葉」を聞くと、ときどき駅の自動改札を思い出す。 止まらないための振る舞い。 引っかからないための角度。 誰かを不快にさせない代わりに、誰の輪郭にも深く触れない通過音。

昼休みに、隣の席の人が「結局、普通が一番なんですよね」と言っていた。 その言葉は軽かったのに、紙コップの底みたいに少しだけ歪んでいた。

普通というのは、平均ではなく、摩擦の少なさ「普通というのは、平均ではなく、摩擦の少なさ」なのかもしれない。 長く生き残った動き。 最も注意されにくく、最も疲弊しにくい姿勢。 だから、普通の人というより、普通に最適化された人が増えていく。

それは便利ではある。 朝の支度は速くなるし、会話も滑らかになる。 大人の返し方を覚えると、空気は壊れにくい。 静かな会話だけで、一日が終わることもある。

ただ、その滑らかさの中に、一人の時間だけが少し浮いて見える時がある。 電車の窓に映る顔が、自分で決めた形なのか、通過しやすいよう削られた形なのか分からなくなる。

最適化という言葉には、目的地が書かれていない。 速くなることと、近づくことが、同じ意味として扱われている。

昔、川沿いの細い道をわざと遠回りして通勤していた時期があった。 時間は余計にかかったけれど、橋の下にだけ残る冷たい空気とか、朝なのに営業していない自販機の沈黙とか、そういうものを毎日見ていた。 役には立たなかった。

役には立たなかったが、何かが削れ切らずに済んでいた気もする。

最近はもう、その道を通っていない。 近道の方が合理的だからだと思う。 合理的という言葉は便利で、ほとんど反論を許さない。

ホームに入ってきた電車の窓に、こちら側の列が一瞬だけ映る。 同じ位置に並ぶ人たちの姿が、コピーというより、長く使われた定規みたいに見えた。