夕方のスーパーマーケットの乳製品売り場には、いつも少しだけ冷気が残っている。 平日の十七時四十分。 買い物かごを腕に下げた人たちが、ヨーグルトや牛乳のパッケージを手に取り、戻し、そのままかごへ入れていく。

棚の蛍光灯は均一な白さで商品を照らしている。 自動ドアが開くたび、外の湿った初夏の空気が足元をかすめて通り過ぎた。

いくつかの背中を眺めながら、賞味期限の並びを見ている。

そのとき、隣に立ったスーツ姿の男が牛乳パックへ手を伸ばした。 指先が角へ触れる直前で止まる。 ほんの数ミリだけ空中を漂い、そのまま二秒ほど動かなかった。

成分表示を読んでいるようにも見えない。 何かを比較しているようにも見えない。

ただ白い直方体の前で、動きだけが途切れていた。 やがて男はパックをかごへ入れ、惣菜売り場の方へ歩いていった。

そのあとも牛乳パックは同じ場所に並び続けている。 かつて冬の部屋と、意味を剥がしていく体温を書いたときのことを思い出した。 画面の中では言葉が激しく行き来していても、机や湯気や体温は別の速度でそこに残っていた。

スーパーの棚も少し似ている。 商品には名前があり、価格があり、栄養成分が印刷されている。 それらを見て選び続けているうちに、ときどき物より先に情報だけを見ているような感覚になることがある。 店を出て駅へ向かう。 街灯が灯り始める時間だった。

すれ違う人たちはそれぞれ別の速度で歩いている。 それでも視線は似た方向へ向いている。 スマートフォンの画面。

あるいは数十メートル先の何もない空間。 車道のヘッドライトがアスファルトを白く照らし、居酒屋の看板が赤や黄色の光を落としている。

光は距離に応じて届く。 けれど、人の注意は必ずしもその配置に従っていないように見える。

すぐ隣を歩く人よりも、ポケットの中で振動した端末の向こう側の出来事の方へ反応しているような場面がある。 以前、SNS疲れの輪郭と、帰路にばらついている光を眺めていたときも、似た感覚があった。 路上には多くのものが存在している。

看板。 植え込み。 街路樹。 信号機。

けれど、そのすべてが同じ濃さで見られているわけではない。 駅の改札前を通り過ぎる。 いつも見かける初老の男が、今日も新聞スタンドの脇に立っていた。

毎日ほとんど同じ時間にそこにいる。 その姿はいつの間にか駅前の風景の一部になっている。

以前、毎日すれ違う人と、大人の返し方のような距離感を書いたときも、同じ場所で似たことを考えていた。

その日、男はいつも通り前を見ていた。 けれど何かを待っているようにも、誰かを探しているようにも見えない。 人の流れだけが目の前を通り過ぎていく。

周囲の人たちもまた、男の脇を自然に避けながら歩いていく。 自動販売機や街路樹の脇を通る時と、あまり変わらない動きだった。 お互いを認識していないわけではない。

ただ、それ以上の何かも起きていない。 住宅街へ入ると急に暗くなる。 街灯の間隔が広がり、家々の窓から漏れる光がコンクリート塀へ四角い影を落としていた。

ある家の庭先に古い自転車が置かれている。 サドルは破れ、チェーンは茶色く錆びていた。 もう長い間動いていないのだろう。

けれど湿った夜気の中で、その鉄の塊だけが妙に輪郭を保っている。 通り過ぎるとき、ペダルがわずかに揺れた気がして足を止めた。 見上げると、雲の隙間から月が出ている。

プラスチックのゴミ箱の蓋が鈍く光っていた。 隣家の室外機が低い機械音を立てて回り始める。 しばらくすると、その音だけが夜の中に残った。