河原へ向かう途中、以前使っていた机のことを思い出した。

正確には机そのものではなく、机の角に残った小さな傷だった。 横幅120センチほどの普通の机で、右側の手前だけ少し色が変わっていた。 椅子に座るたびに腕が触れていた場所だと思う。 毎日見ていたはずなのに、使っている時はそこに傷があることすら気にしていなかった。

仕事のできる人のところに仕事が集まる場面を何度も見てきた。 机の上に資料が積まれて、付箋が増えて、飲みかけのコーヒーが置かれる。 頼まれるたびに引き受ける人の机だけ、なぜか少しずつ物が増えていく。

机は何も言わない。 「ただ置かれたものを支えて」いる。

その姿を見ていたら、人が疲れていく流れも、机の傷と少し似ているのではないかと思った。 よく使う場所ほど先に擦れる。便利だから使われる。使われるから傷む。

ただ、机の場合は「味が出た」と言われることがある。 同じような傷でも、人の場合は「限界」「故障」「問題」と呼ばれる。 机の表面なら年月の証拠になるのに、人の表情に刻まれたものは隠したほうがいいものになる。

少し読み違えている気もする。 机と人間を同じ棚に置くのは乱暴だ。 机には休憩時間もないし、嫌だと言う口もない。そもそも机が退職届を書くところを見たことはない。

でも、古い机を見ると妙な納得もある。 「右端だけ塗装が薄くなった机」は、壊れたというより、そこを何度も使われた結果だった。 新品の机にはない形が残っている。

靴も同じなのかもしれない。 お気に入りだから履く。 履くから底が減る。 買い替える時、寂しさはあるかもしれないが、靴自身が失敗したわけではない。

そう考えてから、いや、机に感情を移して勝手に慰めているだけかもしれないと思った。 机はただ机で、傷はただ傷だ。

河原の道を歩きながら、昔の机の角を思い出していた。 擦れた場所だけが少し丸くなっていた机。 誰にも褒められず、文句も言わず、ただ手が触れる場所を少しずつ変えていった机。