送り状の値段
2026.07.20 (月)
送り状の横に置かれていた一冊の本を見た。受付の人が読むためなのか、誰かの忘れ物なのか分からない。 白い帯が少しだけ日に焼けていて、角は丸くなっていた。 本棚ではなくカウンターの端に寝かされているせいか、本というより厚紙を束ねた道具に見えた。
送り状を書き終え、料金が表示される。 思っていたより高い数字だった。千円札が何枚か消えていく。 荷物は箱の中で静かなままなのに、送り状だけが急に現実的になる。
本には値札が付いていなかった。 たぶん最初は付いていたのだろう。 剥がした跡だけが少し光っている。 その跡を見ていると、本は値段を隠してから長く使われるものなのだと思った。 送り状は逆で、最後まで値段が残る。
その並び方を見ているうちに、本は料金を払ったあとに読むもので、送り状は料金を払うために読むものなのだと少し思った。 だから同じ紙でも役割が違うらしい。そんなことを考えていると、少しだけ確信しかけた。
無料だったらどうだっただろう。
ネットで申し込めば家まで集荷に来てくれる。 箱を持って駅まで歩かなくていい。炎天下で段ボールの角が手に食い込むこともない。 便利なのは間違いない。
でも無料だったら、箱を渡したあとで急に心配になりそうな気がした。
本屋で「ご自由にどうぞ」と書かれた本を見かけることがある。 あれを手に取るときは、なぜか少し周囲を見る。 誰かの忘れ物ではないかとか、本当に持っていっていいのかとか、余計な確認が増える。 値段が付いている本ならそんなことは考えない。払えば自分のものになると勝手に納得できる。
だから「送料も同じなのかもしれない」、と一瞬だけ思う。
いや、たぶん違う。本と宅配便は別のものだし、無料でも安心して使えるサービスはいくらでもある。 自分が勝手に値段へ安心を貼り付けているだけかもしれない。
それでも、数十円しか払わなかった荷物が知らないトラックへ積まれていく場面を想像すると、少しだけ落ち着かない。 高いから安心なのではない。安すぎると、どこか説明を読み飛ばした気がしてしまう。
そんなのはこちらの読み方が悪いだけだ、と反論もできる。 負け惜しみみたいな反論なので、そのままにしておいた。
受付のカウンターでは、「本は最初に見た位置から一ミリも動いていなかった」。 外へ出ると、段ボールを失った両手だけが軽くなっていて、白く光るアスファルトの向こうで陽炎が静かに揺れていた。