窓際に鉢植えが並んでいた。

葉は全部同じ向きを見ているようで、近づくと少しずつ違う。 いちばん窓側の葉だけが光を受けて白っぽく、「奥の葉は机の影を抱えたまま」だった。 土は乾いていて、小さな白い粒が混ざっている。水をやる係がいるのか、自然にそうなったのかは知らない。

トラブルがひとまず片付いたあと、同僚が「来年は大丈夫でしょ」と言った。

そのとき、なぜか鉢植えのことを言っているのかと思った。

来年になれば葉も増えて、茎も太くなっている。 そういう植物の話なら、なんとなく分かる気がした。 勝手に伸びるわけではないのだが、伸びる方向くらいは想像できる。

でも話していたのは仕事だった。

仕事なのに、植物みたいな未来を置いていた。

葉を一枚めくるような軽さで「来年」が出てきて、机の上に置かれる。 誰もその言葉を疑わない。 来月より遠くて、十年後より近い。不思議なくらい便利な距離だった。

鉢植えはそんなことを考えていない。

少し傾いた葉の先に、茶色く乾いた部分がある。 そこだけ昨日と今日の境目みたいだった。 来年のことは一枚も生えていない。

植物は未来を育てているのではなく、今日の光に葉を向けているだけなのかもしれない。

たぶん違う。

植物だって来年のために根を伸ばしているのかもしれない。

そう思いかけたが、根は見えないので見なかったことにした。 見えないものまで観察し始めると、仕事になる。今日はもう仕事を終えたばかりだ。

窓の外で風が一度だけ葉を揺らした。

その揺れを見ていたら、「来年」という言葉は、「予定というより鉢の名前札に近い」気がしてきた。

名前札が刺さっているから、その植物が来年もそこにある気になれる。

実際には鉢の位置は変わるし、葉は落ちるし、誰かが植え替えるかもしれない。

それでも札だけは残る。

「来年は大丈夫でしょ」も、そんな札だったのだろうか。

根拠というより、鉢から抜け落ちないための細い支柱みたいなものだったのかもしれない。

そこまで考えて、また鉢植えを見た。

さっきまで光っていた葉が、雲ではなくブラインドの角度のせいで少し暗くなっていた。 晴れているのに、明るさだけが移動していた。

来年も、こういうふうに少し角度が変わっただけの今日を、別の名前で呼んでいるだけなのだろうか。