電話が鳴る前の影
2026.06.23 (火)
思い出したことは、昔見た影だった。
朝のオフィスには、まだ人の動きが少なかった。 窓側の机の横に置かれたキャビネット、その足元に伸びる影。 晴れた日は影が妙に濃い。 蛍光灯がまだ主役になる前の時間だからなのか、机や椅子の形がそのまま床に落ちているように見える。
PCの電源ボタンを押して、黒い画面に小さな光が点くのを待っていた時だった。 電話が鳴った。 机の端に置かれた白い電話機から、少し乾いた音が3回続いた。 他の人が椅子を引いて立ち上がる。 その瞬間、床に伸びた椅子の影が少し揺れた。
なぜか、その影を見て、今日はこういう日になる気がした。 電話の内容を聞く前に、なんとなく予測が出てくる。 誰からなのか、どこか少し慌ただしいのか、今日は誰がいないのか。声の大きさや間の取り方だけで、勝手に組み立ててしまう。
自分でも少し不思議だった。 もしかすると、電話の音ではなく、「その前から見ていた影を読んでいた」のかもしれないと思った。 昨日より椅子の位置が少し違う。 誰かが通った跡がある。 机の下の荷物の置き方が違う。 そういう細かい変化が、影の形を変えている。
影は何も話さない。 ただ、昨日と今日の違いだけを床に置いている。 少し考えて、いや違うかもしれないと思った。
単純に、自分が勝手に意味を足しているだけかもしれない。 影に聞いた覚えはない。電話にも聞いていない。 なのに答え合わせだけしている。 人間は本当に雑な観測装置だと思う。 見えたものの隙間に、勝手に説明文を差し込む。 便利なのか、ただの癖なのか分からない。
それでも、その「朝の影は少しだけ預言者の道具」のように見えた。 もちろん、ただの床に落ちた暗い形である可能性も高い。 時計を見ると、始業まであと7分だった。 急ぐ理由はなかったが、急がない理由も特になかった。
電話を取った人の足元で、キャビネットの影だけが少し形を変えていた。 その横に落ちていたのは、黒いクリップだった。
← 400円の残響 | 午後は別の時刻を持っている →