美術館を出ると、空が思っていたより白かった。

雨が降るほどではないが、青と呼ぶには少し遠慮がちな色で、建物の輪郭だけをきちんと残していた。 展示室の中で何枚も額縁を見てきたせいか、その空まで一枚の絵に見えた。たぶん違う。 空は額縁に入らないほうだった。

入口の階段では、パンフレットを畳む音が続いていた。 靴底が石を擦る音と、自動ドアの開閉音が重なって、それぞれ別の方向へ流れていく。 噴水の縁には数人が腰掛け、ペットボトルを持ったまま空を見ていた。見ていたというより、置いていたのかもしれない。

展示室では、モネの池やゴッホの花を見た。ルノワールも見た気がするが、あとで考えたら別の画家だったかもしれない。 名前の札を見たつもりで、「隣の札を読んでいた可能性」がある。札はときどき作品より少し急いでいる。

綺麗だった、という感想は残る。 でも、その先が続かなかった。

それは絵のせいではなく、自分の見方が途中で終わってしまうからだと思った。 いや、その考え方も少し都合がよすぎる。 綺麗という言葉を置けば十分なのに、勝手に続きを欲しがっているだけかもしれない。

そのあとに見た、名前を覚えていない画家の絵では少し止まった。

宗教の痛ましい場面が描かれていたり、罠にかかった鳥の近くで子どもが穴へ落ちそうになっていたりした。 どうして同じ画面に置いたのだろうと思う。 意味があるのか、それとも自分が勝手に線を引いただけなのか。 空も曇り始めると、雲同士を勝手につないで形を作ってしまう。 あれと少し似ていた。

だから、「何かを表現するなら、多くの人に好かれることとは両立しないのかもしれない」と一度だけ考えた。

けれど、美術館の出口まで歩く間に、その考えは少し怪しくなった。

有名な絵にも意味はあったのだろうし、自分が拾えなかっただけかもしれない。 逆に、無名の絵へ意味を見つけたつもりになっていただけかもしれない。 「人は分からないものを見ると、意味を補充したがる」らしい。 自分も例外ではなかったらしいが、その法案には反対票だけ入れておいた。

外へ出ると、空はまだ白かった。

展示室の照明より少しだけ平坦で、誰の作品でもない色をしている。 その色を見ながら、美術の楽しみ方は結局よく分からないと思った。

分からないまま、帰りのパンフレットを鞄にしまった。