夕方、買い物に出る前に、流しに置いてあった食器を見た。 朝に使ったものがまだ二枚残っていた。 白い皿が一枚、その上に小さな茶碗が一つ。 茶碗の底には水が少し溜まっていて、窓から入った光がそこだけ妙に明るくしていた。

SNSで見た話を思い出した。 妻から「結論は要らない。会話を続けることが大事なの」とよく怒られる人がいるらしい。

最初は、食器にも結論があるような気がした。 皿なら皿で、食べ終わった。 洗う。 それで終わり。 会話も同じで、要件を言って終わる。 たぶんそういう話なのだと思った。

でも、「茶碗は皿の上に乗ったまま」だった。

洗うなら別々にすればいいのに、なぜか二つ重なっている。 持ち上げると、皿の中央に丸い水滴が四つ残っていた。 さっきまで茶碗の底にあったものらしい。 結論を出したつもりでも、その下に何か残ることはある。

「いい天気ですね」と言われて、「そうですね」とだけ返すことを考えた。 会話としては成立している。 たぶん正しい。 けれど、その二つの言葉だけでは、「皿を一枚だけ置いた食卓」みたいでもある。

「本当に晴れましたね」と続ければ、少し違うところへ行く。 昨日は雨だったとか、夕方でも暑いとか、買い物に行くにはちょうどいいとか。 食器なら、箸を置く場所くらいは増える。

ただ、毎回そこまで考えて話しているわけでもない。

私は皿を洗った。 水が当たる音がして、茶碗の縁に残っていた泡が一つだけ流れた。 スポンジで二周ほど擦ると、表面は元の白さに戻った。 何を話していたのかも、その頃には少し曖昧になった。

結論から話せ、と言われる場面もたしかにある。 仕事なら特にそうだろう。 けれど、夕方の台所で皿を洗いながらする話まで、同じ型に入れる必要があるのかは分からない。

時計を見ると、買い物に出る時間を少し過ぎていた。

時計が悪いことにした。

皿を立てかけ、茶碗をその隣に置いた。 二つとも乾くまでにはまだ少しかかりそうだった。

会話も、そのくらいでいいのかもしれないと思ったが、たぶん違う。

時計はもう一分進んでいた。

少しだけ説明を抑えて、「皿の配置→会話の結論→また皿」という往復を強めた。 最後も答えを回収せず、時計に責任を押しつけて途中で切ってある。 人間、困ると時計か天気のせいにするので便利だ。